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背中

異質な存在に対しては、生命、物質に関わらず、
決して感情的偏見は持たず、且つ警戒も解かない。
結局それしかないだろう。

何ものをも恐れない愛の行動は、
結果が良ければ社会に大きな感動を与え神のごとくに称えられるが、
結果が悪ければ殺され恐怖と偏見の種ともなる。


人間の幸せの一つは、信頼、あるいは信頼という幻想をどれだけ持ち得るかということだ。

私はあなたに自分の背中を安心して向けられることが嬉しい。
それは私の後頭部に目がついているからでも、気配を察知できるからでもない。

それが出来ないからこそ嬉しいのだ。
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# by sansetu | 2016-07-29 08:58 | 古今亭心象

「昭和元禄落語心中」がかなり良い

アニメ「昭和元禄 落語心中」が、かなり良い。
「ずるい」くらいに丁寧に制作されている。
この「ずるさ」は何なんだろう。
カネ(予算)だけのことじゃなさそうだ。
話の主体は「昔話」だ。
1話を経て、過去の話へと入って行くのだが、それが実に。
世の中、どんなジジイもババアも、昔は、当然のごとく、少年少女だったわけで、しかも、その気持ちは、実は今も10才の頃と大して変わりはしない。
若い連中には言っとくが、この世の中に、実は年寄りなんてのは一人も居やしない。
歳を取り変化するのは、人体という乗り物だけで、心はまったく変わらない。もちろん経験を積み、認識は若い頃とは変わっても、心そのものは何も変わってはいない。
だからこそ、歯がゆいのだろう。
うちの高齢患者さんたちのほとんどが、「歳は取りたくないねぇ」と言うのは、自分の心に対してではなく、その心と、年々解離してゆく、己の「乗り物」に対して言っているだけなのだ。
でも、その人の本体は、もちろん乗り物ではなく、心にあるわけで、で、そういったことを、もしも小学校低学年の頃から、教えてもらっていたとしたら、私は、自分の祖母を、そのアバターによる印象からの「ばあちゃん」とは、決して認識しなかったろうよ。
いつの頃からか、人は、経年変化によるアバターを演じるようになってしまい、それが慣習のようになってしまっているわけだが、もうそれは、いいんじゃないの、と思える。
たとえば、見た目のジジイやババアが、孫と普通にバンドやったり、非行やったって、別にいいんじゃねww。
と、マジで思う。





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# by sansetu | 2016-06-29 19:21 | 古今亭心象

不自由もまた自由

言葉の意味なんてな、一つじゃない。
いくつもあるのがまっとうだ。

人間は自由に不自由を選択できる。
もしも、自由しか選択できないのなら、
それは間違いなく不自由だね。




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# by sansetu | 2016-06-29 15:44 | 古今亭心象

技術における伝統とは

昨日の続き。

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話は少しズレるけど、流派を興すタイプの人と、学派のトップなんかとの違いは、今で言う発達障害というか、普通でない力を持っているか、いないかの差はあるように思うんだよね。
で、師匠の技術には、見た目の現象と、その現象を発現させている本質とがあるわけで、多くの人たちは、見た目の現象を伝統だと思ってしまうのだけど、たとえば、合気道で言うならば、身長150cmの塩田剛三の技を、この物質物理の法則(たとえば円谷プロの特撮でも、水の分子の大きさは変えられないから、プールに浮かべた軍艦はオモチャと分かってしまう)の中で、身長2mの弟子が、現象そのままに受け継げるはずもなく、また意味もないわけで、ゆえに、師匠から真に受け継ぐべきは、見た目の伝統色なんかじゃなくて、その技を自在に具現させ得る構造そのもの、イコール本質をこそ、伝承しようと努力しなければ、何年弟子入りしていようが意味はないんじゃないのかな。





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# by sansetu | 2016-06-23 12:05 | 古今亭心象

保存と伝統

フェイスブックでの、伝統鍼灸の話題に対して書いたコメント。

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まず、保存と伝統は違うわけで、もう一つは、文化芸術における伝統の在り方と、技術分野の本質追求における伝統とは、まったく異なるものであり、文化芸術においては白が黒になることは有り得ないが(たとえばスーパー歌舞伎にしても、その変化性に於いてはたかがしれている)、だが技術に於いては、白が黒になるのは当たり前であり、金にもなり、さらには遥か上の段階としての白に戻る場合もあり、その変化性の固定化されない、何ものにも支配されない自由な躍動性こそが(本質を追求するための)伝統なのであり、ゆえに、一つの伝統問題を論じようとするならば、まずは各々の言葉の定義の確認を先に済ませておかなければ、いくら時間をかけたとしても、得られるものは少なく、またどこにもゴールできないままで終わってしまうことになりかねない。




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# by sansetu | 2016-06-22 10:24 | 古今亭心象

死後の世界

今日、フェイスブックに投稿した記事。

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米国の精神科医(大学教授)ブライアン・L・ワイスの一連の退行催眠臨床報告本、中部大学の大門教授のバージニア大学での研究報告、胎児記憶の研究者である池川産婦人科医師などの本を読んでいたので、この映画の予告編も、これまでのそういった報告同様に、ごく普通に自然現象の一事例として見れました。
死後の世界の存在調査はバージニア大学を始め、この分野を安易に否定しない世界各国の科学者たちにより、疫学的な手法で冷静に学問的に行われています。
重要なことは疫学的に、ウソや間違いがないかを厳しくチェックして、事例をより多く収集し分析することです。
ちなみに私は、シャーリーマクレーンや、とあるヨギが勝手に喋ったようなことなどには、まったく興味はありません。
大切なことは、その事例のサンプリングが、科学の名に恥じない手法と経緯で行われたか否かに尽きるからです。
そして、そういった観点から、科学的仮説を立てるに当たって必要とされる客観的な事例の収集は、すでに十分以上成されていると言えるでしょう。
たとえば米国の「ジェニー・コッケル」のケースなど、興味のある人は、読んでみてください。下のコメ欄にリンクしときますから。

「過去生」の記憶を持つ成人 ― ジェニー・コッケル氏の事例 ―





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# by sansetu | 2016-06-18 21:23 | どんと来い超常現象

13歳少女の悟り

2006,10,9,9:51(再掲載)

アメリカで起きたアーミッシュの学校の女子児童5人が、銃で射殺された事件の後日談です。

「引用開始」
「年下かばい「私を撃って!」…アーミッシュ校射殺事件
 【ニューヨーク=大塚隆一】米東部ペンシルベニア州ランカスター郡にあるキリスト教の一派アーミッシュの小学校で2日、女子児童ら5人が近くに住む32歳の運転手の男に射殺された事件で、死亡した13歳のマリアン・フィッシャーさんが年下の仲間を救おうと「私を最初に撃って、ほかの子たちは解放して」と訴えていたことが分かった。ロイター通信などが6日伝えた。

 肩と手足を撃たれながら一命をとりとめた妹(11)が家族に語った。この妹も「次は私を撃って」と訴えていたという。最初に撃たれたのがマリアンさんだったかどうかは分かっていない。

 男は散弾銃など持って教室に乱入。人質に取った6~13歳の女児ら10人の足を縛って黒板の前に並ばせ、次々と発砲した。

 犯行直後に自殺した男の動機はなお不明だが、女児たちが「なぜ、こんなことをするの」と聞くと、「神に腹を立てているからだ」などと答えていたという。

 マリアンさんの家族から教室内の様子を伝え聞いた女性はロイター通信に対し、「自らの命をささげようとしたこの子たちは何と勇敢だったことか。神様が勇気を与えてくれたのだと思う」と語った。

(2006年10月7日20時31分 読売新聞)」「引用終了」


もう30年も昔になりますが、私はある女性の覚悟に触れ、深く感じ入ったことがあります。
武家女性の覚悟とはまた少し違うものだったと思いますが、暴力への恐怖心を克服するために武道を習っていた私なんぞよりも、はるかな場所にその女性はいました。

完全に負けたと、その時思いました。
と同時に、武道にとって最も大切な根源を教えて貰ったと思います。
その女性はそれまでに出会ったどの武道の師範よりも強いと思いました。

それは突き詰めていくと母親の強さにも似たものかも知れません。
私の母親も、私たち兄弟のためなら、平気で死ねる人です。
そのように確信しています。何しろ長い付き合いですから。分かります。

人は、弱ければ弱いほどに、
それを悟った時、強くなれるのでしょうか。

反対に、武道というものは、
強くなるためにと、やればやるほどに心は弱くなっていきます。

男にも、母親の心がなければだめです。





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# by sansetu | 2016-05-28 11:30 | 古今亭心象

赤峰勝人さんとともに

2013年に佐渡から九州へ戻る際、古い記事のほとんどを非公開にした。
古い情報は使えないし、それを更新するよりも新しい記事を書いた方が楽だからだ。
しかしそういったことに関係の無いカテゴリの記事は復活させたいと思う。
以下の記事は2006年7月12日の記事だが、個人的に感慨深いものがある。
妻が造った野菜と料理を、日本のプロの中のプロである有機農法家に、
美味しいと言ってもらえたことは、妻もさぞや嬉しかったことだろう。

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2006.7,12,18:31
朝8:30に宿に迎えに行く。
赤嶺さんは既にロビーで待っていた。
佐渡のど真ん中を通っている国道は朝の通勤ラッシュで混んでいたので、山道を通って合氣堂まで行くことにした。

私「あそこん旅館、料理多かったでしょう」
赤「多いな~っ。わしゃどこ行ってん絶対に残さんのやけど、昨日はさすがに残したわ」

量の多さが「もてなし」と勘違いしている田舎旅館は多い。だからいつまでたっても田舎旅館なのだ。
食べ物に対して人の10倍、いや、無限に感謝して生きているような人に食事を残させるということが、どれだけ心を哀しませてしまうかも想像できない「もてなし」とは・・。

旅館からまっすぐ山に入り、西二宮の産廃処理場へ行こうと思ったのだが、工事中で行けない。大回りで行けるかもと、一度も走ったことのない山道を走らせると、そこは佐和田ダムだった(笑)。でもけっこうきれいだった。
そこから下り、おなじみの西二宮の下に出たのだが、時間を食ってしまったので、産廃の経緯だけを説明しつつ、二宮神社、妙照寺、実相寺を参拝し、合氣堂に到着した。

お茶を飲みながら共通の友人知人の話しに花が咲き、また、息子さんの一人が平成に入り、作業中の事故で亡くなったことを初めて聞かされた。
「ニンジンから宇宙へ」を読まれた方は知っていると思うが、赤嶺さんは若い頃、ご長男も亡くされている。

お二人も大切な息子さんを亡くされたのである。この時はさすがにスーパーマンの赤嶺さんも深く落ち込み、一時は本気で農場をやめようと思われたそうだが、知人に赤嶺さんの循環農法を世界に広めることの重要性を説かれ、決意も新たに、これまで以上に活動内容もパワーアップして現在に至っている。さすがである。

ところで前の日に「首が回らん」と言っていたのは本当の話で、岡山へ行ったあとから首と肩腕がずっと具合が悪いとのこと。動かすことはできるのだが、動作痛と安静時・夜間の強い不快感がある。

治療は井穴刺絡、体鍼、整体を組み合わせて行なった。幸い1回の治療でかなり改善し、先ほども大阪空港からお電話を頂き、だいぶ良くなったとのご報告を頂いた。

何しろ赤嶺さんには365日、休日がない。睡眠時間と合気道の稽古時以外は仕事をしていることになる。その睡眠時間もいつも短い。むしろいつも以上に長く寝られるのは、講演会で県外に宿泊する時くらいではなかろうか。これは赤嶺さんだからこそ可能なのである。
しかし赤嶺さんも今年で62歳。こんな生活を40年以上も続けていれば、いくら自然食を食べていても体のあちこちにガタもくる。当たり前のことである。

私はいつものように、プロの職人さんに話すことを伝えた。
「これからは身体ケアも仕事であるという認識を持ってください。そうでないと決してプロを維持できませんから」。

先天的体力のある丈夫な人ほど、この理、この観点が希薄なのである。

しかしまた同時に、先日の還暦に近いジャズマンお二人を治療した時にも強く感じたのだが、治療家の役割というものの大切さである。
私自身は普通の人間でしかないが、偉大な人たちの身体をケアすることは、間接的にでもかなり「世界に貢献できる」、という事実である。

この辺りが治療家冥利であり、経営を抜きにしても、今後もっと積極的にやりたいと思い始めたところである。

治療を終え、我が家の居間で昼食。
ギンバソウの味噌汁と、我が家で採れたキュウリとシソの塩もみが旨いと言って頂けた。

赤嶺さんは「なずなの塩」をいつも持ち歩いている。
そして何にでもふりかける。味噌汁にまでふりかけたのにはびっくりした(笑)。
「これを摂らんと元気が出らんのや」

私らもご飯にかけてみた。たしかに旨い塩である。
これは大分の佐伯の海水である。旨いはずだ。

ただし、一般の人は赤嶺さんの塩の摂り方をそのまま真似しない方がいい。
赤嶺さんは睡眠中以外は肉体労働をする人。四六時中汗をかいている。
そういう人の真似を、そうでない人が上辺だけ真似をしてもケガをするのがオチだ。

書きたいことはまだまだあるが、きりがないのでこのへんで。

赤峰さん、また佐渡に来ちょくれな~っ!!!





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# by sansetu | 2016-05-28 11:03

上から目線?目線の角度なんてどうでもいいだろ

数年前から「上から目線」という、くだらない言葉が世間でよく使われるようになった。
と、こういうことを書くと「上から目線だーっ」と言われるのだろうか。

しかし言葉のやりとりで大切なのは、被害妄想的な目線の角度なんぞでなく、中身だろう。
だから批判があるのならば、その中身に対してこそすべきだ。
もしもその中身すらもなかったとすれば、
中身がねーぞコノヤロー、と言ってやればいいだけだ。
そこでいちいち目線の角度のことなんか言う必要もなかろうよ。

ま、コノヤローとは言わん方がいいとは思うが。





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# by sansetu | 2016-05-21 11:26 | 古今亭心象

考えないようにすることを考えて選択することは大事

人間が何かを「しない」ということは、
「しない」という行為を「する」ことだ。

信じる行為を否定し信じないことは、
信じないことの良さを信じているからだ。

ここは考えないでおこう、と考えて決めている。

無になるのは難しい。
なにしろ最初っから有でしかないんだから(笑)。

最近、人は死んでも無になれないことを知りつつある。
なので実は無になろうとする必要もない。
昔から無が尊ばれたのは、無がツールとして有益だからだ。
なので無を求める行為は所詮は欲だ。

だから何も求めなければいい。無すらも。

けれどもちろんそれも、
自分が何も求めないことで、何かを得ようする、
あるいは何ものかに成ろうとする欲でしかないのだが。

でも欲を否定する必要もない。
欲も無も現世ではツールでしかない。

良い欲、悪い欲、普通の欲。
良い無、悪い無、普通の無。
てなもんだ。





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# by sansetu | 2016-05-21 10:54 | 古今亭心象