昨年の春より再開した身体稽古は私の歴史の中では第4期となります。
第1期は16歳から始めた合気道の型を、ただひたすら反復稽古していた時期。
第2期は上京して大東流合氣柔術とフルコン空手の稽古をしていた時期。
第3期は佐渡に来て無門会空手を稽古していた時期。
そして現在の第4期では、これまでに学んだ知見を統合し且つ取捨選択し、これに合氣掌と名付けて稽古を行なっています。
現在の第4期稽古の最大の特徴は、上部構造に特化した研究を行なっているということです。
そのために昨年の春から以来、稽古は自由系の組手が中心です。
これらの組手は脳に極度の集中を強制するためのツールとして利用しています。
組手には様々な種類の組手がありますが、何を選択して行なうにせよ、その組手の持つ構造で得られることと、逆にその組手では決して得られないことを、常に把握しておくことが重要です。
それは稽古だけが巧くなっても意味がないからです。
あるいは武道の稽古ゆえに、自分が強くなったなどと錯覚すると危険だからです。
これは他のジャンルの稽古や練習に於いてもまったく同様のことが言えます。
つまり稽古や練習とは、あくまでも合目的でなければ意味をなさないからです。
現在行なっていることは身体の統合的な出力の研究なのですが、前にも書いたように統合する為には、まずは分離していることが前提となります。しかしこの前提という要素も、あまりにも厳しく追及し過ぎると状況がさっぱり前へと進まなくもなりますので、どこかでエイヤっと切り捨てることも必要です。
要は自分にはこのレベルの前提しかないのだ、ということを自覚していればいいと思います。逆にそれができなければ危険でもあります。
これもすべての分野に言えることです。
身体の統合的な出力を可能にするものの中で上部構造に属するものが心法です。
心法には意識と念があります。念とはここではイメージや自己催眠的なものとでもしておきます。
私たちは現在、念よりも意識の使い方を重要視しています。
意識は無限です。と言いたいところですが、人間という有限から生まれる意識も有限です。
しかしこの有限は大空のごとくに広いです(大空とはここでは無限の宇宙のことではありません)。
この有限なのに広い、という構造はなかなかにクセモノです。
人の身体の使い方なんて解剖学的にも限られてはいるはずなのですが、筋という軟部組織が(骨や支持組織や自らの質による限界を前提としても)水のような流動体であることに気が付くと、とたんに身体は無限となります。実際には有限なのですが、その有限はあまりにも広いので、一人の人間にとっては無限に等しいのです。
これまでの実験(自由系の組手は実験に他なりません)で分かったことは、人間の生物としての働きはコンピューター用語で言うところのデフォルトの状態にある、ということです。
通常仕様である、ということです。
そしてこのデフォルトにも当然に三節分類があるわけで、寿司で言うならば並、上、特上があります。
では心法とは何の為に必要なのかと言えば、このデフォルトを超える、外すために必要なのです。
デフォルトはそれがいくら最上の特上であってもデフォルトでしかありません。デフォルトとは当然に限界のことです。もちろん何故それが人間に備わっているかと言えば、それが必要であり実際とても有用だからです。
人間の身体はこのデフォルトにより常に保護されているとも言えます。
タイトルの「凡人こそ意識の活用が必要である」というのは、私のような身体的凡人が身体的優秀人に対するには、もうデフォルトを外すしかないからです。ということは身体的優秀人がデフォルトを外せた場合、当然に私なんぞはもう相手にならないわけです。そしてそれでまったくいいのです。要はこの構造を自身の身を以って認識できることが重要なのです。頭ではなく、身を以って、です。身のない理論は空論です。
「付録」
ちなみに通常の合気上げと合気は違います。
合気上げは物理です。なので特に心法を使わずとも物理が分かれば誰でも実践可能です。
合気とは非常に範囲の広い曖昧な言葉であって、味噌もマヨネーズも一緒くたになっている言葉なのです(味噌もクソも、ではないところがミソ)。
合気や勁には物理だけでなく心法が使用されています。
ということは本当は心法を用いた合気上げも存在するわけですが、ここでは敢えて強引に線引きをしておきます。その方が逆に分かり易いからです。
最後に、
身体に関する方法論を自己の身体に創始する上で絶対に必要なことは実験です。
どんなに高度な難しい言葉を使えても、実際に「それ」ができなければ、いつでも「それ」を示せなければ、何の意味もないからです。
そして「それ」が常に自己にとって合目的であることです。
第1期は16歳から始めた合気道の型を、ただひたすら反復稽古していた時期。
第2期は上京して大東流合氣柔術とフルコン空手の稽古をしていた時期。
第3期は佐渡に来て無門会空手を稽古していた時期。
そして現在の第4期では、これまでに学んだ知見を統合し且つ取捨選択し、これに合氣掌と名付けて稽古を行なっています。
現在の第4期稽古の最大の特徴は、上部構造に特化した研究を行なっているということです。
そのために昨年の春から以来、稽古は自由系の組手が中心です。
これらの組手は脳に極度の集中を強制するためのツールとして利用しています。
組手には様々な種類の組手がありますが、何を選択して行なうにせよ、その組手の持つ構造で得られることと、逆にその組手では決して得られないことを、常に把握しておくことが重要です。
それは稽古だけが巧くなっても意味がないからです。
あるいは武道の稽古ゆえに、自分が強くなったなどと錯覚すると危険だからです。
これは他のジャンルの稽古や練習に於いてもまったく同様のことが言えます。
つまり稽古や練習とは、あくまでも合目的でなければ意味をなさないからです。
現在行なっていることは身体の統合的な出力の研究なのですが、前にも書いたように統合する為には、まずは分離していることが前提となります。しかしこの前提という要素も、あまりにも厳しく追及し過ぎると状況がさっぱり前へと進まなくもなりますので、どこかでエイヤっと切り捨てることも必要です。
要は自分にはこのレベルの前提しかないのだ、ということを自覚していればいいと思います。逆にそれができなければ危険でもあります。
これもすべての分野に言えることです。
身体の統合的な出力を可能にするものの中で上部構造に属するものが心法です。
心法には意識と念があります。念とはここではイメージや自己催眠的なものとでもしておきます。
私たちは現在、念よりも意識の使い方を重要視しています。
意識は無限です。と言いたいところですが、人間という有限から生まれる意識も有限です。
しかしこの有限は大空のごとくに広いです(大空とはここでは無限の宇宙のことではありません)。
この有限なのに広い、という構造はなかなかにクセモノです。
人の身体の使い方なんて解剖学的にも限られてはいるはずなのですが、筋という軟部組織が(骨や支持組織や自らの質による限界を前提としても)水のような流動体であることに気が付くと、とたんに身体は無限となります。実際には有限なのですが、その有限はあまりにも広いので、一人の人間にとっては無限に等しいのです。
これまでの実験(自由系の組手は実験に他なりません)で分かったことは、人間の生物としての働きはコンピューター用語で言うところのデフォルトの状態にある、ということです。
通常仕様である、ということです。
そしてこのデフォルトにも当然に三節分類があるわけで、寿司で言うならば並、上、特上があります。
では心法とは何の為に必要なのかと言えば、このデフォルトを超える、外すために必要なのです。
デフォルトはそれがいくら最上の特上であってもデフォルトでしかありません。デフォルトとは当然に限界のことです。もちろん何故それが人間に備わっているかと言えば、それが必要であり実際とても有用だからです。
人間の身体はこのデフォルトにより常に保護されているとも言えます。
タイトルの「凡人こそ意識の活用が必要である」というのは、私のような身体的凡人が身体的優秀人に対するには、もうデフォルトを外すしかないからです。ということは身体的優秀人がデフォルトを外せた場合、当然に私なんぞはもう相手にならないわけです。そしてそれでまったくいいのです。要はこの構造を自身の身を以って認識できることが重要なのです。頭ではなく、身を以って、です。身のない理論は空論です。
「付録」
ちなみに通常の合気上げと合気は違います。
合気上げは物理です。なので特に心法を使わずとも物理が分かれば誰でも実践可能です。
合気とは非常に範囲の広い曖昧な言葉であって、味噌もマヨネーズも一緒くたになっている言葉なのです(味噌もクソも、ではないところがミソ)。
合気や勁には物理だけでなく心法が使用されています。
ということは本当は心法を用いた合気上げも存在するわけですが、ここでは敢えて強引に線引きをしておきます。その方が逆に分かり易いからです。
最後に、
身体に関する方法論を自己の身体に創始する上で絶対に必要なことは実験です。
どんなに高度な難しい言葉を使えても、実際に「それ」ができなければ、いつでも「それ」を示せなければ、何の意味もないからです。
そして「それ」が常に自己にとって合目的であることです。
# by sansetu | 2012-05-25 09:57 | 合氣掌、身体操作関連 | Trackback






















